『蜜蜂と遠雷』を観た

 

映画『蜜蜂と遠雷』を観た。恩田陸原作の小説が松岡茉優さん主演で映画化されたもの。

 

一言で感想を言うならば「解釈違い」だった。

 

私にとっての『蜜蜂と遠雷』は、かつて天才ピアノ少女だった栄伝亜夜が母の死を契機にピアノから遠ざかるものの、周囲の人々、とりわけ同じコンクールに出演した同世代の天才たちとの交流を経て、一度閉じてしまった世界を再び開いていく物語だった。

原作では語り部となる人物が転々と変わっていくが、あくまでも本筋は他者との交流によって亜夜の内面が(同時に亜夜の演奏するピアノも)変化していく様子だと私は読んでいて、けれど映画は音楽と世界との繋がりにフォーカスされていたように思う。

確かに原作でも「世界は音に溢れている」といった表現があるし、冒頭も亜夜の「雨音が屋根を叩く音がギャロップが駆ける音のように聞こえる」シーンだった気がする。「世界は音に溢れている」は『蜜蜂と遠雷』のテーマの1つではあるのだろう。「亜夜という人間が開いていく過程」か「世界と音楽との繋がり」か、どちらに主眼を置くかの違いであってどちらかが間違っているとかそういうことを言いたいわけではない。ただ鑑賞中はずっと「映像にすることで描写されるもの」と「映像にするために捨象されるもの」について考えていて、今回の映画化では、私が原作で好感を持っていた部分がほとんど捨象されていて、かつ挿入されたシーンも見せたいシーンを撮るためにキャラクターの性格を捻じ曲げるようなシーンに思えてウッ…っとなってしまった。

ちなみに冒頭のシーンが映画では土砂降りの中を駆ける黒馬の映像になっていて、鑑賞初っ端から「え、これ原作読んでない人は意味わからないんじゃない?」と戸惑った。シーンの切り取り方も繋げ方も好みと合わなくて(この記事で言いたいのは一貫して映画が私の好みと合わなかったということ)、そこ切るの?!そのシーン何?!?!みたいな気持ちになってしまってシュンとした。

個人的に亜夜の友達の奏ちゃん(?)が亜夜のコンクール用のドレスを貸してくれるシーンや亜夜が明石さんに「明石さんのピアノ好きです」ということを言うシーンが好きだったのでばっさり無くなっててかなしかった。

風間塵の蜜蜂王子描写もほとんど全くなく、音大で塵の弾くピアノに亜夜が影響を受ける場面もなく、ボロい靴の人描写から急に亜夜の後をつけて工場?に現れる描写なので端的に言ってヤバい。

マサルにしたって最初の対面で「あーちゃんじゃない?」「もしかしてマーくん?」という会話がなされ情緒とは…と思ってしまった(出会って3秒で合体か?)

そんなこんなで風間塵とマサルと亜夜の交流はお情け程度にしかないのに急に3人(+2人)で海へ行く(なぜ?)。頭がオーバーヒートである。

春と修羅」のカデンツァにしても原作では「何個か思いついているけどどれを弾くかは決めてないの」という亜夜の言葉に亜夜の天才性が現れていて「私はまだ神様に愛されているだろうか」という帯を彷彿とさせアツかったのに、映画になると「考えたけど全部没、直前の風間塵による演奏を聴いて即興でカデンツァを弾く」という描写に変わっていて、そういう些細な差し替えに監督と私の解釈の違いが感じられてダメだった。

決定的だったのはコンクールのファイナル、亜夜はコンクールを棄権して会場を去ろうとする。そこでピアノの音?が聞こえてきて(作中2度目の描写)コンクールに戻るというシーンなのだけれど、なんかもう違うやん!!!という気持ちが止まらなかった。塵やマサルといったピアニストとの交流で亜夜は自分の過去やピアノ、ひいては世界と向きあえるようになったのに、映画の描写だと単に亜夜がメンタル弱くてスピリチュアルなナイーブ少女のような行動を取らされていて違和感を拭えなかった。私にとっての亜夜は、繊細な部分もあるけれど、芯が通っていて豊かな感受性を持った太い人物だったのに、映画の亜夜は吹けば飛ぶ紙か?ってくらいペラッペラだった。細くて弱くて、苦悩しているのは分かるけど全て亜夜の内側で閉じてしまっている。松岡茉優さんの意思の強そうな外見でなんとかギリギリ原作のキャラを保っているような、そんな印象だった。

 

原作を読んでいるから違和感を感じながらもシーンの繋がりを補完して映画を観ることができたけれど、原作を読んでいない人が映画を観たらどんな感想を抱くんだろうと感じた。

原作を読んでいなければ面白かったのかもしれない。あれはあれで一本の映画として完成されていて、むしろ数百ページある厚い物語を良く破綻させることなく2〜3時間に落とし込めたなと思う。

でもな、やっぱり解釈違いなんだよな。映画では人の繋がりが希薄でコンクールの結果に説得力がないように思えた。映画のラストでコンクールの結果が表示されるのだが(ここは原作に忠実なんだな)、頭の中が???だった。説得力は細やかな描写の積み重ねの上にあるものなんだなと思った。

 

体裁も文体も整えることなく「監督と原作の解釈違いだった」ということをつらつら書いてきたわけだけれども、役者の方はみなさんハマり役で表現も上手かったと思う。

とりわけ亜夜と塵が工場?の窓から差し込む月明かりに照らされながら『月光』を連弾するシーンは美しかった。あれを観るためだけに表参道の小洒落た店で小洒落たランチを食べられるくらいのお金を出す価値があります。本当に。

 

原作好きな人には勧められないけれど、松岡茉優さんを好きな人には胸を張ってお勧めできる映画でした。

 

 

これは完全に余談ですが、仕事/学校終わりにちょうどいい開始時間かつレディースデーだったのに500人は入るであろうシアターに10人ほどしかお客さんがおらず、映画産業の衰退を見た。地方都市の映画館やべえな。採算取れてないだろうな。

今はプライムビデオもあるしNetflixもあるし、そこそこ新しいタイトルも月額いくらで見放題の時代なのでわざわざ映画館まで足を運んで1800円払うのはよっぽど好きじゃないとできないよなあ。大画面も音響も家では味わえないけれど、そこに1800円払う価値があると考える人は少数じゃないのかな。

 

余談の余談だけど上映前の注意喚起で「音の出る食べ物は控えてください」って言うのに映画館で売るのはポップコーンなの不思議だ。なぜポップコーンなのか?調べる元気はないです。

 

明日も仕事なのでおやすみなさい。