『小川洋子の偏愛短篇箱』を読んだ

運転免許の更新に行こうと思っていた。3年前のちょうど今日、指導教官が「誕生日おめでとう」と言いながら運転免許を渡してくれて、誕生日に免許を更新するのもいいなと思った。

 

昨日届いたばかりの新しいアイシャドウを下ろし、お気に入りのチークとグロスを塗り、高円寺で買った古着のワンピースと小ぶりな揺れるイヤリングをつけた。バスの時刻表を眺めてダラダラしているうちにバスに間に合わない時間になってしまい、家で1日だらけて過ごすか迷ったけれど、行ってみたいリサイクルショップがあったので家を出た。本棚が欲しかった。

 

リサイクルショップに着くと想像していたような大きな本棚はなく、3つ先の信号を曲がったところにもう一件リサイクルショップがあると教えてもらったので向かうことにした。

その道中、左耳のイヤリングを落としていることに気づいた。軽くて着けている感覚がないところを気に入っていたのだけれど、落としても気づかないのは難点だった。歩いた道を引き返し、30分ほど探したけれど見つからなかった。好きな人とのデートのために買ったイヤリングだったので、デートの思い出まで失くしたような気がして悲しかった。

 

教えてもらったリサイクルショップに着くとさっきのお店以上に家具がなく、薄暗く、雑多だった。店内を一周してお店を出て、せっかくなので本でも読みに市街地まで出ることにした。

見慣れた通勤路に親しい友人の名字を冠した喫茶店を見つけてバスを降りた。古道具店と兼ねた店内は薄暗く、小さな音量でジャズが流れていて、売り物の骨董時計が刻む秒針の音がコチコチと響いていた。天井には風鈴が吊るしてあり、時折小気味よくリンと鳴らしてみせた。

 

小川洋子の偏愛短篇箱』は田辺聖子さんが亡くなった際に知った本だ。横光利一の「春は馬車に乗って」が好きなのだけれど、同じく「春は馬車に乗って」を好きな友人が田辺聖子さんの訃報に際して読んでいたのが「雪の降るまで」だった。奇しくも『小川洋子の偏愛短篇箱』には「春は馬車に乗って」もおさめられており、きっと面白いだろうと読みたかった本だった。

店の亭主は穏やかな風貌で、それが古めかしい店内とうまく調和している気がした。アイスコーヒーは冷たく、程よく苦かった。

帰りがけに、店内に並べられていた日傘を買った。近くのお店で売られていた手作りの傘らしいのだが、店主が亡くなり縁あって置くことになったらしい。開くと祖父母の家のような香りがして、それがなんとなく死を連想させた。

 

田辺聖子さんの概要欄には生まれ年しか記されていなくて、それが亡くなってからあまり時間が経っていないことを感じさせた。

 

誕生日が来ると、とある友人のことを思い出す。「私ね、枕草子の○○段(何段と言っていたか忘れた)が好きなの。本によって段数は違ったりするけれど、『ただ過ぎに過ぐるもの』の段。短いから後で読んでみて」と言っていた。「私が何もしなくても時間は流れていくのよ」と零した顔に浮かんだ表情が安堵だったのか諦念だったのか思い出せない。

 

ただ過ぎに過ぐるもの。帆かけたる舟。人の齢。春・夏・秋・冬。

 

夏ももう終わる頃、一つ歳を取り、ただ過ぎに過ぐるものだなあと思う。「小説よりも現実の方がよっぽどかなしいから、楽しい話しか読まないの」と言っていた彼女は元気にしているだろうか。

彼女は「雪の降るまで」の似和子にどことなく似ている気がする。