『いい子のあくび』を読んだ

初めて読んだ高瀬隼子さんの小説は『水たまりで息をする』だった。衝撃だった。小川を流れる澄んだ水のように静かで心地よい手触りの文章なのに、終始漂う不穏な雰囲気。終盤の展開、圧倒的なカタルシス。なんとも名状し難い読後感で強く印象に残る作家さんだった。

『おいしいごはんが食べられますように』で芥川賞を受賞され、読んでみると、私の心は完全に掴まれた。デビュー作の『犬のかたちをしているもの』も読んだ。好きだった。大好きだ。

昨年8月に『おいしいごはんが食べられますように』を読んで以来、ふとした瞬間に『おいしいごはんが食べられますように』のことを思い出し、考え、捉えられている。この感情を何とか咀嚼しようとはしてみるものの、未だ完全には飲み込めず、消化もできないまま引っかかっている。

そうしているうちに、高瀬隼子さんの新作が出た。

 

数年前とあるコンテンツにハマっていた頃、ポップアップストアやコラボカフェにも一人で行くほど入れ込んでいたが、アニメだけは全話見られなかった。普段4コマ漫画で描かれるキャラクターたちが話し、動く姿を見られるのは楽しみだったし、実際最初の数話は楽しく観た。しかし、物語が終盤に近づくにつれ、各話放送後のTwitterでは「百合」という感想が多く見られるようになった。私は主要な二人のキャラクターの関係性が好きだけれど、二人の関係を「百合」だとは思えず、周囲との温度差に勝手に疲れて、自分が好きな範囲だけで好きでいればいいやと思って見るのをやめてしまった。

二人は確かに好きあっている。だけどそれは本当に恋愛における文脈での「好き」なのだろうか。二人の間には愛情も友情も憧憬も依存も独占欲もあって、思春期の「私にとってこの人は特別で、この人にとっても私は特別である」というある種の無敵感から来る破天荒な行動とはちゃめちゃな世界観が好きなので、「好き」のエッセンスだけ取り出して、恋愛の文脈に押し込めて百合だと言って消費したくなかった。

毎日生きているだけで色々な情報や感情が流れ込んできて疲れてしまう。そんな生活の中でよりシンプルでより純粋なものを求めてしまうのは理解できる。それでもやっぱり、愛情も好感も憧憬も憐憫も執着も情念も全部全部違う感情だから、そのままそれとして扱いたい。違う感情なのに、今の世の中ではただの矢印になってしまうのが私は嫌なのだ。

 

高瀬隼子さんは、不純な感情を不純なまま書いてくれる作家さんだ。

『いい子のあくび』に登場する直子は、避けないことを決めた。歩きスマホで直進してくる人間を、直子を認めてその容貌から避けなくていいと判断した男たちを、避けないと決めた。そしてぶつかる、痛がってみせる、謝罪を求める、そうして少し取り戻した気持ちになる。彼女が人より気がつく人間だからこそ払わなければならない注意を、女性だから当然だと求められる気遣いや不条理を、それらを均して、損なわれた何かを取り戻した気持ちになる。会社や恋人といるときの彼女は品行方正で「いい子」だ。彼女は自分の二面性についても理解しており、大学からの友人の前でだけ露悪的に振る舞ってみせる。

私だ、と思った。

むやみやたらと人を傷つけたい訳ではない。「いい子」でいることだって自分で選択している。自分は根っからの善人ではない、そんなことは分かっていて、だからこそ善くあろうとしている。周囲との摩擦を生まないように、自分で自分を許せるように、善いと思える行動をする。誰かからの見返りが欲しい訳でもない。自分の行動に納得したいだけだ。でもたまに疲れる。疲れていっぱいいっぱいのときに思う。なんでだよ、おかしいだろ、私が人より少しだけ擦り減るのを当たり前みたいな顔して享受してんじゃねーよって。たまに思う。いつまで譲ればいいんだろう、なんで私が譲るのが当たり前だと思ってるんだろう、たまにはあなたが譲るべきでは?そう思ってしまう。そんなふうに思うなら「いい子」をやめればいいって自分でも分かっている。でもできない。「いい子」でいることはすっかり骨身に染みていて、簡単には抜けない癖になっている。

職場に苦手な人がいて、話しているときは楽しくて、いい子だと思うのに、話していないときはこの人のこと嫌いだなあとずっと思っている。その人の言動の一つ一つが私の心に引っかかっていて、なぜ引っかかりを覚えるのか、どうして不快に感じるのか、自分の感情を細分化して、悪感情を抱くことに正当性があるのか、悪感情を抱く原因は彼女の領域にあるのか、自分の領域にあるのかをずっと考えている。でも話すと悪い子じゃないな、この人の言動に悪意はないな、と思う。なのに話していないときは言われた言葉や取られた行動を思い出してはああ嫌だな、と思う。割り切れない。心の中で嫌だと思うことと、それを態度で表明することは全く別の階層にあると思っているので、感情が彼女に伝わらないかいつもヒヤヒヤしている。そうしてかえって優しく接してしまって、彼女の言動は私が苦手な方向に振れ、苦手だなあという気持ちをより一層深めてしまう。悪循環だ。

『おいしいごはんが食べられますように』のキャラクターたちもこういう気持ちだったのかもしれないと思った。付き合うし、褒めるし、結婚の話も切り出すけど、イラつくし、内心馬鹿にしているし、傷付けばいいと思っている。ぐちゃぐちゃで、ぐちゃぐちゃなのに、離れられない。「好き」という言葉だけで思いを表現するには、愛も憎もあまりにも近いところにあって、誰かが誰かを思うときに、純度100%でいることはきっととても難しい。どうしたって不純な感情が混じってしまって、名状しがたくて、どうしようもなくて、ぐちゃぐちゃで、そういう感情の有り様がとてもリアルで、高瀬隼子さんの小説が好きだと思う。

高瀬隼子さんの小説の世界では、不純な気持ちを抱いていることが当たり前として書かれている。登場人物たちは極めて真っ当な倫理観を持っているので、それに伴う葛藤は各々もちろんあるのだけれど、ぐちゃぐちゃをぐちゃぐちゃとして書くことで、それでいいんだよと、高瀬隼子さんから許されている気持ちになる。純粋にはなれない。いい人ではない。心の中のぐちゃぐちゃを押し込めて、いい人のふりして生きる自分を少しだけ認めてあげられるような気がする。だから高瀬隼子さんの小説が好きだ。

自分の性分に抗いながら、少しでも健やかに生きられますように。明日からも生き延びられますように。