葬列

祖母の訃報が届いたのは8月10日の11時頃だった。

その日は山の日で、月曜日だけど仕事が休みだったため、家でごろごろしていた。

祖母の容態が悪いことは母から聞いていた。大柄で、甘いものが好きだった祖母は体格が良かったが、お見舞いに行く度に体が一回りずつ小さくなっていることに気づいていた。これで会えるのは最後かもしれないと何度も思った。そしてそれが現実になった。

享年80歳。81歳の誕生日まであと1週間だった。

 

喪服は高校を卒業したときに母が買ってくれた。それから6年間、幸いなことに喪服の出番はなかった。

今年の5月、母方の祖父が他界した際に初めて袖を通した。その後クリーニングに出して吊るしておいた喪服の、2度目の出番がこんなに早く来るとは思わなかった。

急いでシャワーを浴び、飛行機を取り、荷物をまとめて家を出た。13時過ぎに家を出て19時に福岡空港に着いた。普段は何かと理由をつけて帰省を避けているのに、その気になれば茨城から福岡まで6時間で着くのかと不思議な気持ちがした。

お盆の時期なので人が多いかと思ったけれど空港は混んでいなかった。こんなご時世なので当然かもしれない。それでもスーツケースを引いて旅行へ行くのだろうと思われる人たちもいて、私も他の人から見たら「こんなときに旅行/帰省するひと」に見えるのかなとぼんやり思った。19年一緒に住んだ祖母の葬儀は不要不急じゃないよね、と心の中で確認して、そんなことを考えている自分がすこしかなしかった。

 

葬儀は家族葬だったので、弔問客も多くはなく、恙無く終わった。

泣いているところを1度か2度しか見たことのない父が泣いていた。父方の祖父は私が高校2年生のときに亡くなっているので、これで父は両親を喪ったことになる。

父、母、兄、祖父、祖母、私の6人で暮らしていた家に、これから父と母のふたりで暮らしていくことになる。兄も私も実家へ戻ろうとは思わないだろう。記憶よりも随分と汚れ、あちこちにガタが来ている家に帰る度、自分の親不孝を感じる。父と母の暮らしをかなしみはしても自分の人生を犠牲にしようとは思えない。家に帰ると息が詰まる。私は私という個人ではなく、彼らの娘という役割を生きねばならなくなる。それがどうしても私にはできない。

 

小学生の頃、夏休みには祖母の部屋に入り浸っていた。父、母、祖父は仕事で不在にしており、兄はソフトボールの練習に出ていた。家の中には祖母と私の二人で、畳に寝転んでゲームをする私のために祖母はいつもクーラーを入れてくれた。

祖母と母は仲が良くなく、祖母の部屋に私が居るのを母は嫌がった。母の車の音が聞こえると祖母の部屋から逃げるように出ていた。祖母はそんな私を毎日どんな気持ちで部屋へ入れてくれていたのだろう。

クーラーで冷えた部屋、井草のかおり、部屋のすみに正座をしてテレビを観ている祖母。

 

祖母の法名には「夏雲」という文字が入っている。夏に生まれ夏に逝ったからだ。

これから夏が来て、青い空に浮かぶ入道雲を見るたびに、私は祖母を思い出すのだろうか。火葬場の外に広がる空と雲を目にしたとき、そんなことを思った。