『少女邂逅』を観た

 

外はすっかり春の陽気で、数週間ぶりの洗濯日和の土曜日だった。

カモミールクッキーが焼けるまでの12分を待つために、何となく選んだ『少女邂逅』。面白かったし、映像も綺麗で、よかったのだけれど、あまりにも救いがなくてしんどくなってしまった。

主人公の小原ミユリはいじめられていて、その気弱な性格からリストカットをすることさえできないでいる。蚕に「ツムギ」と名前をつけ、「君は私が困ったら助けてくれるよね」と話しかけながら大切に飼っている。ある日いつものようにいじめられっ子から連れて行かれた林で、蚕のツムギを捨てられてしまう。その日ミユリを助けてくれたのは知らない女の子で、翌日転校生としてミユリの高校へやってくる。「東京から来ました。冨田紬です」。ミユリと紬は次第に近づいていき、紬によって外見を変えてもらったミユリはクラスメイトにも受け入れられていく。紬とミユリは親密さを増し、二人きりで沖縄に行く内緒の約束をして計画を立てる。決行の日、学校を休んで電車に乗るが、乗換駅で電車を待っている最中、紬が寝入ってしまった時にミユリは一人引き返す。夜に紬が目覚めるとミユリの姿はなく、高校の先生達と父親が駅にやってきて紬を連れ帰る。ミユリと紬はこの日を境に疎遠になっていき、ミユリは東京の大学に合格して町をでることになる。東京行きの電車を待つ駅のホームで元いじめっ子のクラスメイトから紬が死んだこと、父親から性的虐待を受けていたこと、売春して沖縄行きのお金を貯めていたことを告げられる。東京へ向かう電車の中、ミユリは手首を切り、手首から溢れてくる血、目に涙を溜めていくミユリのシーンで映画が終わる。

 

救いがなさすぎて泣いてしまった。

ミユリにとって紬は、オシャレで賢くクラスの人気者で、自由で綺麗で強い存在で、自分とは正反対の存在だった。どこか捉えどころがなく、気ままで、だから憧れるし惹かれる。そんな存在から救われ、友達もできて、ミユリの世界は広がっていった。ミユリにとっては本当に、紬は神様みたいな存在だったんだと思う。なのにミユリは紬の手を離して、「普通」の人生を歩んでいく選択をする。そして、神様だと思っていた紬が、実際はただの傷ついた女の子で、世界から逃げ出したかったのは紬の方だったと知る。

まっっっったく救いがない。自分を救ってくれた人にとどめを刺したのは自分だって、そんなの信じたくない。ミユリがしあわせに生きるためには、どこか危うげな紬と逃げるのではなく、地に足をつけて地道に生きるしかなかったんだよね。ミユリは自分の足で立って生きていける力があって、紬のおかげでそれに気づくことができて、ミユリは東京に行くことで狭いと思っていた町を抜け出せるけれど、紬の出来事は一生付いて回るんじゃないかな。自分には紬さえいればいいと思っていたのに、本当はそんなことなくて、自分は一人で歩いていける人間で、自分のために自分を救ってくれた人を裏切ることができる冷たい人間なんだって、そのことにミユリは気づいてしまった。SOSを発するためのリストカットさえできなかった弱いミユリはもういないけれど、リストカットできるようになったことを果たして強さと呼べるのだろうか。狭い世界を抜け出して広い世界に行くことができても、自分が自分である現実は変わらない。住む場所を選べても決して世界があなたを変えてくれるわけではない。

ミユリが紬に「どうして私を助けてくれたの?」って訊くシーンがあって、ミユリから見た紬のイメージを伝えていくんだけど、紬は「その逆」ってバッサリ切るんだよね。「昔の私に似てたから」って紬は言うけど、紬は誰にも助けを求められていない。紬はミユリを助けたけれど、助けが欲しかったのも、逃げたかったのも、紬なんだよね。この人は私を裏切らないっていうたった一人の人が欲しかったんだよね。

おおばやしみゆき先生の『きらきら☆迷宮』に「本当の友達よ 世界中が敵に回っても 必ず味方になるような」「他人が何? そんな人達にはひとかけらも好かれなくていいのよ……何人傷つこうが死のうが構わないわよ そうよ!世界中の人を殺しても あなたが手に入るなら…それでよかったのに…」という台詞があり、幼少期にこれを読んで友人観に多大な影響を受けたんだけど、紬が欲しかったのもきっとこういう関係だったんだよね。

思春期の頃、同性の友達に対して友情とも恋情とも取れるような、憧れと親愛と束縛心が入り乱れた感情を持ったことがある人は多いと思う。友達探しは恋人探しと似ていて、自分のことを選んでくれるたった一人のことを探していた。その人さえいれば他に何もいらなくて、二人でいればなんだって出来るような気持ちになれて、二人だけで世界が満ち足りるような関係。たった一人の人の、たった一人の人になりたかった。

なんだか悲しいね、憧れすぎるとうまくいかないのかな、近づきすぎるとダメなのかな、同性の友達、少しでも憧れが入ると途端に距離感が難しくなる。今はもう大人なので、好きな人を遠くから好きなままでいることができるようになったけれど、若い頃はそれができなくて、関係が変になってしまったこともままあって、性別関係なく、好きな人に同じように好きになってもらうことは難しいんだと思った。

 

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少女邂逅』のポスターに、「君だけでよかった。君だけがよかった。」というキャッチがついていて、映画を観終えて初めてこれが紬の言葉でもあることを知る。

紬は昔の自分に似てたからミユリを助けたって言ってたけれど、one of themじゃなくて誰かのたった一人になりたかったから、あえて孤独なミユリを選んだのかもしれない。 

個人的につらかったもう一つのことは、ミユリがクラスに友達ができた一番大きな理由が「イメチェンしたミユリが可愛かったから」であること。映画の途中で紬が「体にしか価値ないじゃん」と言うシーンがあって、父親から性的虐待を受けたり自分の体を買おうとする男が簡単に見つかったり、そういう出来事で紬は恐らく自分の内面に興味がある人はいない、体にだけ価値があるって価値観を内面化してしまったんだろうけど、異性からの価値判断される基準が「(若い)女であること」=身体面なのに加えて同性からの価値基準も「かわいいこと」=外面なの相当しんどいんじゃないだろうか。終盤で紬が、絹を綺麗に取るために繭となった後は生きたままお湯に入れられ、成虫しても木にとまることができず、口もないため2日で死んでしまう蚕に自分を重ねているの、かなりしんどい。そんなことないんだよって、体にしか価値がないなんてそんなこと言わないでって、紬に言ってあげる人は誰一人いない。

 

紬がいなければミユリは町を抜け出せなかっただろうし、ミユリがいなければ紬は死ななかったかもしれない。

でも、二人の間に楽しい時間があったことも真実で、二人が出会わなければよかったのに、なんて言えない。ミユリが紬に救われたように、紬のこともミユリが救えたらよかったのに。どうして世界はうまくできていないんだろう。

 

二人の出会いを手放しで喜ぶこともできないけれど、二人が出会わなければと願うこともできない。二人の少女は確かに出会って、同じ時間を過ごした。

誰が救われたのか、誰も救われなかったのか、わたしには分からない。つらくて綺麗な映画でした。