『アルジャーノンに花束を』を読んだ

 

最近は中高生の頃に読んだ本を読み直すことが多い。新しい作者を開拓するエネルギーがなく、小説によって引き起こされる自分の感情の揺れ(しかもどういった揺れかというのは小説を読むまで分からない)に向き合うエネルギーがない。要するに疲れている。

馴れ親しんだものに触れるのは安心感がある。過去の自分の琴線に触れたという事実。それが私を安心させる。目の前のこの本は私の生活を乱さない。ある種の予定調和。

また、中高生の頃からの自身の変容をうかがい知れる。好きだと思っていた本に心動かされなくなっていたり、流していた部分にひどく心を乱されたり。私は変化しているんだな、と思う。それがいい方向になのか、そうではないのかは分からないが。

 

アルジャーノンに花束を』は高校生の時に読んだ本だ。恐らく、高校2年生の時だったと思うが、記憶は定かではない。おすすめの一冊をクラス全員が持ち寄り、1分間で回すというイベント(イベントという表現が正確なのかも分からないが)に持っていった記憶がある。クラスで一番賢くてクラスで一番いい大学に行った彼女が松本清張の『点と線』を持って来ていたことがやけに鮮明に記憶に残っている。

アルジャーノンに花束を』を私がどういう経緯で手に取ったのか覚えていない。この頃は中学生の時ほど乱読はしていなくて、押し寄せる膨大な量の課題と煽られる進路の問題の非現実感で疲れていた気がする。あまり覚えていない。私は海外の小説家の本を好まなかった。今も好んでは読まない。ひとえに私の無知が原因ではあるのだが、文化的背景を知らないために理解できないコンテクストや言い回しがあり、作者の含みを読み取れないことが多い。端的に言えば馴染まない感じがする。登場人物の思考や行動が私の育って来た環境とは馴染まない。日本の作家を読んでいる方がストレスがないのだ。

 

高校生の私は、チャーリィがアルジャーノンに「ここから逃げよう。一緒に」と言う場面が一等好きだった。「一緒に逃げる」という行為から連想されるロマンチックさは欠片もなく、ただかなしみが横たわっている。苛つき、焦り、そしてかなしみ。

高い知能を得て周囲と会話が成り立たなくなったチャーリィは、自己中心的だとか高慢だとか言われるまでになってしまう。そんなチャーリィがアルジャーノンに対して一貫して優しさを持っているのがかなしい。優しさと呼ぶのは適当ではないのかもしれないけれど、憐憫や同情と呼ぶ方が適当なのかもしれないけれど、それでもチャーリィは確かにアルジャーノンを想っているのだ。

 

面白かった本や好きだと思う本はたくさんあるけれど、『アルジャーノンに花束を』は特別に好きだった。今もその気持ちは変わっていない。私が死んだら棺桶にこの本を入れて一緒に燃やしてほしいと思っている。そのくらい好きだ。

高校生の頃はどうしてこの本をこんなに好きなのか言語化できなかったし、それは今も大して変わらない。ただ、今回読み直してみて、高校生の時は滑らせるように読んだ前半部分に心が動いた。チャーリィが手術を受けようと思ったのは、周りの人たちと対等になりたかったからだと思ってかなしかった。パン屋の人たちのことをチャーリィはともだちだと思っていて、キニアン先生に喜んでほしくて、大学生のように政治や宗教の話をしてみたくて、チャーリィは手術を受けた。パンの作り方や、周囲の人がどういうつもりで自分に接しているのかや、政治や宗教については全く分からないけれど、自分が人より劣っているという認識だけは痛いほどにあって、それで「ぼくはあたまがよくなりたいおも」ったことがかなしい。

チャーリィは純粋で、他人からの悪意なんてものが存在すると微塵も思っていなくて、みんなが自分に構ってくるのは「ぼくのことがすきだから」と思っている。チャーリィは何も悪くないのに、劣等感がチャーリィを動かし、手術を受け、現実に気づいてしまう。手術を受けさえしなければチャーリィが幸福だと思える世界に留まっていられたのに。高い知能を得たチャーリィが過去の自分に対して怒りのような苦い感情を持つのがかなしい。

 

私たちは優しいチャーリィのことも高い知能を得たチャーリィのことも大好きだよ、だから安心してねって言いたい。大丈夫だよって、チャーリィに安心してほしい。どうか、アルジャーノンとチャーリィが幸福でありますように。ダニエル・キイスが安らかに眠っていますように。

 

 

 

 

『肩ごしの恋人』を読んだ

 

唯川恵肩ごしの恋人』を読んだ。

 

この本を手にとったのは、タイトルが気になったとか、唯川恵が好きだとかではなく、ナツイチを買うともらえる猫のしおりが欲しかったからだ。集英社文庫がやっているナツイチ、名の売れた作者名が並び、読んだことあるタイトルもちらほら。惹かれる本が特になく、でもしおりは欲しいし、と手にとったのが今作だった。

恋愛物を読みたい気持ちではなかったが、ミステリやエッセイやホラーはもっと気分じゃなく、唯川恵、名前は知っているけど読んだことないし、直木賞受賞作らしいし、期待よりも面白いかもしれないと思って購入した。

私はどうして唯川恵を恋愛恋愛した作品を書く人だと思っていたのだろう。唯川恵には、江國香織と近い印象を抱いていて、女の悩みを描く女、と思っていた。全然違った。

肩ごしの恋人』は、二人の女の話だ。綺麗で、自分が綺麗なことを分かっていて、男から愛されるのが大好きで、自分は男から愛されるのが当然だと思っているし、愛されるために努力をしない女は馬鹿だし大嫌いだと思っている女、るり子。堅実で、真面目で、地に足がついていて、男もセックスも人並みに好きだが、男のことは信用していないし、自分のことはもっと信用していない女、萌。二人は5歳からの仲で今現在27歳。今年で28になる。萌は海外からの輸入会社に勤めており主任。るり子は派遣会社で秘書や受付をやりながら結婚と離婚を繰り返し、今回で三度目の結婚を迎える。

 

るり子と萌は性格も生き方も対照的で、二人の関係はわがままなるり子に萌が振り回されているように見える。るり子のあまりの暴君ぶりに苛つきを覚えるシーンも正直あった。るり子は当然ながら女友達がおらず、男とトラブったときに男で発散、ちょうどいい男が見つからないときは萌を使う、みたいな感じ。

どちらかと言えば私は萌寄りの性格をしていて、価値観も萌に近い。るり子みたいな女を武器にして男の庇護を受けることを至上としている女は苦手だ。女であるくせに女を放棄している、るり子から嫌われるタイプだろう。でも、るり子の生き方を否定できない。ある意味でそれは正しいとさえ思っていて、自分にはるり子のような男から寵愛を受けるタレントがないということを自覚している。るり子のような女に対する気持ちは侮蔑と羨望がないまぜになっていて、羨ましくて妬ましい一方で美しさなんて一過性のものだけを拠り所にしている女を馬鹿だと思う。人生が何年あるかなんて分からないが、人生が80年あるとして、女の一生は美しい盛りの時間よりも美しくなる以前の蕾の時期であったり、盛りが過ぎてしおれてしまった後の時間のほうが長いのに、なんて思ってしまう。同時に、今現在美しくない自分が何を言ったところで美しい彼女たちにとって私の言葉は何の重みも持たないことを知っている。

るり子はいい女だ。女であることを武器にしていて、男からの承認にしか価値を見出していないけれど、そうするのは結局、そういう自分が好きだからだ。好きな自分でい続けることに全てを注ぎ混んでいる、るり子はいい女だ。現実にいたら確実に嫌いだし、関わりたくないけれど、『肩ごしの恋人』に描かれたるり子を好ましく思う。もちろん彼女の身勝手さには腹が立つし、それに振り回される男たちや萌のことをとても気の毒に思う。ただ、るり子は自分の身勝手さを肯定していて、身勝手であることを美徳だとすら思っていて、そういう、自分の存在や行動を全肯定している彼女をまぶしく思う。

萌とるり子の関係は難しい。るり子が三度目の結婚をする相手信行は萌が付き合っていた男だ。萌と信行とデートしているところに偶然るり子が遭遇し、3人でご飯を食べ、るり子は信行の荷物にこっそり連絡先を忍ばせて次の日には二人で会う。そうして二人は結婚する。すごい。これだけでもすごいのに、るり子のさらにすごいところは、信行の浮気が発覚して浮気相手から「何度も断ったが信行からしつこく言い寄って来た 信行は20年も昔に流行ったような顔 40過ぎたおばさんに人気がある」といったことを言われ、萌に詰め寄るところだ。「萌が付き合ってたから信頼して信行と結婚したのに、なんて男を掴ませてくれたのよ!」めちゃくちゃすごい。幼馴染の友人の恋人を略奪しといてこの言い様。すごい。

萌がるり子と交友を続けているのは、るり子には何を言っても無駄という半ば諦めの気持ちもある。だけどやっぱり萌もるり子のことが羨ましいのかもしれない。報道記者になって世界中を飛び回りたいと思っていたのに、女という性別が足枷になり叶わなかった。今勤めている会社は、少しでも世界と関わりを持ち続けたいという気持ちで就職し、真面目に仕事をこなして主任にまで登りつめた。昔は海外の希少な雑貨や家具を扱っていたのに最近はなぜかアダルトグッズの取り扱いが増えている。萌はアダルトグッズ部門のチーフを任されそうになる。話を受ければ昇任で、同期ではそのポストに着くのが一番早い存在となる。しかし萌は断り会社を辞める。るり子とは違うつもりで生きてきて、そのために積み上げてきたものを一瞬で失ってしまう。

 

肩ごしの恋人』、性格が対照的な女たちの恋愛譚みたいな雰囲気出してるけど、女と女の友情の物語ですよ。もちろん男は何人か出てきて、既婚者だったり15歳だったりゲイだったりするわけで、るり子と萌が彼らとセックスしたりしなかったりするわけだけど、そこは壮大なおまけです。これは友情の物語だ。

るり子が萌と交友を続けているのは、萌以外にるり子を疎ましがらない女がいないからだと思って途中まで読んでたんだけど、そんなことなかくて、それがめちゃくちゃ良かった。物語も終わりに向かおうとしているとき、るり子と萌の小学生のときの話が出てくる。小学生はうさぎを飼っていて、飼育係は人気の係だった。ある日うさぎ小屋に犬を放すという悪質ないたずらが起こる。翌日グロテスクな死骸となったうさぎを生徒たちが遠巻きにする中、萌は新聞でうさぎの亡骸を包んでいく。それを見た男の子が萌に言う。「おまえ、よくそんな気持ち悪いことできるな。ゾンビだろ」彼は飼育係に最も強く自薦していた生徒だった。萌は彼を平手打ちして一言。「ふん、臆病者が」「女が女に惚れるというのはこいう時だ」という結びの文章が美しい。るり子は、萌しかいないから仕方なくとか萌が都合がいいからではなく、萌が好きだから萌といるのだ。最高だ。

肩ごしの恋人』の結末は、構造としては単純だ。特定の相手がいなかった萌が妊娠しシングルマザーの道を選ぶ、男たちに愛され有り余る幸せを手にしていたるり子がゲイに恋する。持たなかった者が新たなものを手にし、持っていたはずの者が持たない者になる。持つって何を?世間一般で言うところの「幸せ」である。でも、肝心なのは、世間一般の「幸せ」は必ずしもあなたの「幸せ」ではないということだ。『肩ごしの恋人』の結末には、悲壮感などかけらも漂わない。萌は幸福で、るり子も幸福で、二人はそれはそれはしあわせな未来図を描いている。

 

あとがきで江國香織唯川恵の筆致を「梨の筆」と呼んで賞賛していた。上手い言い回しだと思う。唯川恵の他の作品を読んだことがないので唯川恵全体をそう呼ぶことはできないが、少なくとも今作『肩ごしの恋人』は「梨の筆」だった。生々しいこともたくさん書いてあるのに、それが言葉以上の意味や重さを持つことはない。みずみずしくて、軽くて、「女」を語るときに付き纏いがちな陰鬱は微塵も感じられない。仕事のキャリアと女としての幸せという、多くの女が揺れ惑う問題を真っ向から描いておいて、だ。これはすごいことだ。

肩ごしの恋人』で私が好ましく思ったことの一つに、悪い人間が出てこないということだ。萌とるり子はもちろん、信行も、崇も、山本ユリも、柿崎も、文ちゃんも、リョウも、いい奴だとは言い切れなくとも、こんな人間がのうのうと生きてるなんて…と思うような人間が出てこなかった。みんな幸せになってほしいよ。

 

肩ごしの恋人』は萌とるり子の友情が中心の、幸福な物語である。萌も、るり子もかっこいい。女の幸せという難しいテーマを扱いつつも、読後には軽やかで明るい気持ちを抱かせる唯川恵の筆致は見事だった。女と女の友情が好きな女達には特におすすめです。ぜひ。

 

 

肩ごしの恋人 (集英社文庫)

肩ごしの恋人 (集英社文庫)

 

 



『蛇行する川のほとり』を読んだ

 

恩田陸『蛇行する川のほとり』を読んだ。

 

私にも確かに少女だった頃が存在するはずなのに、少女だった私が何を考えていたのかほとんど思い出せない。ただ、少女にはタイムリミットがあることをひしひしと感じていて、出来ることならば少女でいるうちに死にたいと願っていたことはよく覚えている。人生に絶望していたとかそんな大それたことではなく、17歳の、少女が少女であるうちに、少女のままで生涯を終えるのが最もうつくしいと思っていたから。しかし、自死はうつくしくないとも同時に思っていて、それゆえ私はそういった手段を取らなかった。私がいなくなった後に大して仲良くもない人々から私の死を彼女たちの人生の装飾品のように扱われるのが我慢ならなかった。偶発的な事故によって少女のまま時を止める、更新されなくなる、永遠の少女となるのが望ましかった。望んでいた事故は訪れなかったので、私は少女でなくなりながらも毎日生活をしている。17歳の最後の夜、明日18歳となるというあの夜に椎名林檎の『17』を聴いていたことを今も覚えている。

 

『蛇行する川のほとり』は少女たちの物語である。それぞれ違った様式で、しかし皆抜群に美しい少女たち。季節は夏で、舞台は曰く付きの一軒家、美しい少女たちと、とある過去の未解決事件。恩田陸の作品はミステリよりもジュブナイル小説の方が個人的には好きなのだが、この作品は2つの要素がちょうど良く混在している。過去の事件の解明に向かって物語は動いていくのだが、あくまでも焦点が当てられているのは少女たちだ。

 

少女を描く作品が好きだ。留まらないもの、戻らないもの、だからこそうつくしく見えるもの。透明で、壊れそうで、しかしそこには芯がある。少女特有のもの。それらを描く作品が好きだ。あまりにも上手く少女を描かれると、作家というのはすごいものだと驚嘆するばかりだ。

 

太宰治の『女生徒』が好きで、初めて読んだのは高校生の時だったが、いたく感動したのを思い出した。自分にしか理解されないと思っていた感情が、そこにはありありと描写されていた。繊細というべきか、センチメンタルというべきか、あの頃の私たちはとにかく揺らぎやすい年頃で、多少の感受性と本を読む習性を持ち合わせていたならば、私たちはみな『女生徒』を好きにならずにはいられなかった。だから当時、どこかで『女生徒』を、「自己愛の強い少女の物語」と紹介している文章を見てひどく落胆した。私たちが抱いていたあれは決して自己愛なんかじゃないが、側から見れば自己愛に見えるのだと。それはそういうふうに受け取られる可能性があるのだと。そういうふうにしか受け取れない人たちが存在しているのだと。

 

少女は難しい。傷つきやすいくせに、理解してほしがりで、でも誰にも理解されたくない、理解できるはずがないとも思っていて、引っ込み思案で、その割に驚くほど突飛な行動をとることがある。少女が好きだ。

『蛇行する川のほとり』は、作品が面白かったのはもちろんだが、文庫本あとがきがとりわけ好きだった。恩田陸は、彼女が感じていた「少女たち」を作品に封じ込めることに見事に成功している。やわらかな感受性と成熟した分別を持った人なのだと思った。恩田陸が描く少年少女はうつくしい。

 

少女、あるいは思春期の少年少女に対して特別な思い入れがある人におすすめしたい作品だ。風景描写の鮮明さと曖昧さが上手く使い分けられている。恩田陸は情景にフェードをかけるのが上手い。

 

ただやっぱり、人が死ぬ話はかなしい。

 

 

蛇行する川のほとり (集英社文庫)

蛇行する川のほとり (集英社文庫)

 

 

 

『シェイプ・オブ・ウォーター』を観た

 

観たいけどまだ観てない!って人もそろそろいないと思うので。

 

シェイプ・オブ・ウォーター』を観ました。

 

この映画は、言葉を話せない女性イライザと同じく人間の言葉を話せない半魚人の恋物語です。半魚人の「彼」にイライザが人間の言語を教えていき、恋に落ちていく。

音として言葉を発せないため手話でコミュニケーションをするイライザ、黒人のゼルダ、同性愛者のジェイルズと、登場人物のほとんどが今で言うところのマイノリティーなのがこの映画の一つの特徴です。

その辺の考察については他の詳しい人たちがいくらでもやってるので探して読んでください。

 

この映画の一つのテーマは、相手に自分の意思を「伝える」ということだと思っています。

私たちは通常、音声を伴う言語コミュニケーションによって他者との意思疎通を図ります。言葉のキャッチボールを行うことで相手と意思疎通を行えている気持ちになっている。

映画を通じて最も印象的だったシーンが、殺処分されることの決まった「彼」を救出に行く手助けをしてほしいとイライザがジェイルズを説得するシーンでした。ジェイルズは反対し、イライザを振りほどいて家を出ようとするのですが、イライザはジェイルズを何度も引き止め、手話と、表情と、体全身を使ってジェイルズに訴えます。

「伝える」という地平で、私たちに何が出来るのか。他の人に、自分の考えていることをありのまま分かってもらうことは無理だと思います。同じように、誰かが伝えようとしていることを、私は私の経験や感覚に沿ってしか理解することができません。他人との完全な意思疎通はできないんです。

中学の国語の先生が、『同じ「赤」という言葉を使っていても、あなたが「赤」という言葉で伝えようとしている赤と私が「赤」という言葉から連想する赤は同じ色じゃない』とおっしゃっていたのを覚えています。

だからやっぱり、他の人に自分の考えを完璧に分かってほしいというのは、難しいんだと思います。

 

じゃあ、それでも伝えたいことがあったらどうすればいいのか?言葉では伝えきれない、正しく伝わらない、でも伝えたい、伝えなきゃいけない、そんな思いがあるとき、私たちはどうすればいいのでしょう。

映画を観終わってすぐに連想した曲がありました。ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『夜のコール』という曲です。『夜のコール』には

「全ての想いを言葉にするのは無理でしょう

 それでも僕らは言葉から逃げられないでしょう」

という歌詞があります。つまりそういうことなんだと思います。言葉では伝えられない、でも、それでも伝えたいと思うのならば、言葉を尽くすしかない。

 

シェイプ・オブ・ウォーター』は、言葉を話せないイライザが、「伝える」ことを諦めない姿にひどく心を打たれた映画でした。

音声を発せないために言語コミュニケーションにおいて不利な状況にあるイライザが、一生懸命に伝えようとする。じゃあ、私は?伝える前から諦めていないか?どうせ伝わらないからと、伝えることそのものを放棄していないか?

 

恋人といるときに、「ああ、私はこの人のことをこんなにも好きで、おもっていて、たくさんの気持ちがあるのに、愛を伝える言葉は『好き』とか『愛してる』しかないのだなあ」とかなしい気持ちになったことはないですか?「使い古しの愛している」(RADWIMPS『ブレス』)ではないですが、今まで向き合ってきた人に抱いているのとは明らかに違う気持ちを、同じ言葉で表現するしかないやるせなさというか。もちろん愛を伝える表現はたくさんあると思います。でも、ストレートに愛を伝えようとするのなら、「好き」や「愛してる」に戻ってくるしかなくて、その定型の言葉に自分の気持ちをどれだけ乗せられるのだろうか、なんて考えてしまいます。私の中に溢れる愛は「好き」や「愛してる」という形で外に出された瞬間に、何か違うもの、それは「好き」や「愛してる」が表象する定型のもの、あるいは受け手が「好き」や「愛してる」から連想するもの、に変わってしまうんです。

だから、イライザが「you never know how much I love/miss you」と歌うシーンには心打たれました。言葉を話せたとしても、決して伝わらないんですよね。そうだよね、そうなんだよね。あのシーンとっても好きだった。言葉という伝達手段の有無は問題じゃないんだよね。イライザがどんなに彼を思っているのか。私には決して分かることはない。

 

インターネットを見ていると、「ハ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜こいつとは絶対に分かりあえね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」と思うことも少なくないですよね。自衛のためにそういった人たちと距離を置くのも必要なことだと思います。だけど、それでも、譲れないことがあるのなら、もう少し伝えることを頑張ってみようかなと思いました。

 

 

余談ですが、『シェイプ・オブ・ウォーター』は色彩が大変にうつくしいです。画面が全体的に緑がかっていて、最初は寒色系のドレスや靴を身につけていたイライザですが、恋心の成長とともに服飾品が赤に変わっていくんですよね。緑の中の鮮やかな赤。赤いカチューシャも、ドレスも、靴も、とてもよく似合っているよイライザ…。

 

これまた余談なんですけど、映画を観た後、何個か感想ブログを読んだんですね。そこで、とあるブログに、イライザの首の傷跡がエラに変わる最後のシーンを説明する仮説として『「彼」の能力は「元に戻す」能力で、イライザは元々人魚だった』説が紹介されてて、めっちゃ素敵〜〜〜〜〜〜〜〜!!!って思いました。

その説だったら冒頭の水中に沈んだ先がイライザの部屋だったカットとか、イライザがたくさんの靴を持っていて毎日磨いてから履いていることとか、そういうのもしっくりくるし、トキメキフォーエバーナイトって感じです。

 

シェイプ・オブ・ウォーター』、ストリックランドさん視点のシーンとか映画では伝え切れなかった細かい部分がもりもりにつまった小説があるので読みたいです。

ストリックランドさんや一人残されたジェイルズ(自分のこと「遺失物」って言ってたもんね…)のことを思うと少し悲しいけれど、観てよかったです。

 

 

『シングルマン』を観た

 

 

人が死ぬ話が嫌いだ。死は永遠の隔絶であり、悲しくないはずがないのに、誰かの死で涙を誘おうとする小説や映画が嫌いだ。

 

シングルマン』は恋人を失った同性愛者の主人公の最後の一日を描く。愛する人はこの世のどこにももういないのに、愛する人の不在という事実以外は全く変わらない世界。君はもうどこにもいなくて、私はひとりで生きていかなきゃいけなくて、変わらない日常、違うのは君がもうどこにもいないということだけ。愛する人がいないこの世界をひとりでどう生きていけばいいのか。主人公は死を決意し、引き出しの鍵を開け、銃弾の装填されていないピストルをいつもの鞄に入れる。今日が最後の一日。最後の会話。

 

なんだかもう、全部が痛ましいのだ。死んだ恋人の夢を見て目が覚めることも、朝食のパンが凍っていて苛立ちキッチンに打ち付けるところも、最後だから、普段は言わないような褒め言葉を会う人会う人に並べていくところも。心の底から愛した人がいなくなった世界、その世界をのうのうと生きる自分。やるせないし、ゆるせないし、虚無と絶望だけが広がっていて。それをひどく美しい映像と音楽が際立てていく。耽美という言葉がとても似合う映画、映像の一つ一つが美しくて、ピントの当て方、ぼやかし方、切り取り方、明暗、彩度、そのどれもが物悲しさを引き立てる。かなしかった。とても、とても。

 

トムフォードといえば、香水や化粧品のイメージが強かったのだけれど、こういう映画を作る人なのは少し意外な気持ちがした。キラキラしたものを作る、もっと華やかな人だと思っていた。こんな人の心の一番やわらかいところに踏み込んで、ぐじゅぐじゅにしていくような映画を作る人だなんて思わなかった。

 

私は17歳で死ぬのが一番美しいと思っていて、17歳で死にたいと思っていて、だけど17歳で死ねなくて。18歳になったあの日から、私はこの先何となくずるずる生きて、死にたくないと思ったときに死ぬのだろうな、人生ってそういうものなんだろうなって感じていて、シングルマンはまさしくそういう映画だった。死のうと思って行動して死ねなくて、死ぬのを諦めた途端に死が迎えにくる。人生はきっと、そういうものだ。

 

映画の中で印象に残っている台詞がある。主人公の元恋人チャーリーが「Living past is my future.」というのに対して主人公は「Death is the future.」と言う。チャーリーも主人公も未来に救いはないと思っていることは共通しているのに、チャーリーは過去の楽しかった思い出に浸ることが慰みであるのに対して、主人公は死だけが救いと考えている。恋人と過ごした過去を思い出すことは苦しみでしかなく、慰みにすらならない。恋人がいなくなった世界をひとりで孤独に生きることに何の希望もない。主人公の苦悩がどれほど深いのか。

 

もう一つ印象に残っている台詞が、「恋人はバスと一緒。待っていれば次のが来る」というもの。恋人を失ったかなしみから抜け出せないでいる主人公にこの言葉が一体どれだけ響くのだろうか。実際に、かなしみの奥底にいる主人公を救い出すような存在が現れるのだけれど、でも、結局救いはないのだ。この映画に救いはない。あるのは底知れぬ美しさとかなしみだけ。私はこのかなしみを持ってどこへ迎えばいいのだろう。

 

もう本当に嫌だ。かなしい。ひどい。でも人生はこんなものなんだとも思う。人生はこんなものだ。ハッピーエンドは約束されていないし、救いなんてないことの方が多い。例えば異性愛者同士のカップルならば、片方が先に生を終えたとしても子供という存在がもう片方をこの世に繋ぎ止めるのだろう。だが『シングルマン』は同性愛者の物語で、彼らに子供はいなくて、愛する人が生きた証は自分の記憶の中にしかない。それがどれほど辛い状況だろうか。いやもうまじでかなしいので。映画の冒頭からずっと泣いて観た。かなしい。ひどくかなしい。人ひとりの喪失が現実の重さを持って迫ってくる。愛する人がいない世界を、あなたはひとりで生きていけるか?私にはきっと無理だ。愛する人の喪失という重さ、人ひとりがいなくなってしまった空白、耐えられないし埋められない。やっぱり人が死ぬ映画は嫌だ、かなしい、かなしくない訳がない。

 

シングルマン』、うつくしくてかなしい物語です。よかったら是非。

 

 

 

 

『チョコレート』を観た

 

ハルベリー主演の『チョコレート』を観た。原題は『Monster's Ball』(怪物たちの舞踏会)。英国では死刑執行前夜に看守たちが宴会を行い、それをMonster's Ballと呼ぶらしい。

邦題の『チョコレート』は日本の配給会社が付けたもの。キャッチコピーの「たかが愛の、代用品。」もそう。

何だか満たされない気持ちがするとき、お腹をいっぱいにすることで満たされない心を埋めようとすることってない?私はそういうことがよくあって、だから「チョコレート」が「たかが愛の、代用品。」なのに惹かれたんだと思う。「たかが、愛の代用品」じゃなくて、「たかが愛の、代用品」。たかがは愛に掛かっている。そして代用品がチョコレートである、と。最も身近なお菓子であるところのチョコレート。このコピーを見たとき、スピッツの『運命の人』にある「愛はコンビニでも買えるけれど もう少し探そうよ」という歌詞を思い出した。21世紀になって、愛は手軽になったか?手に入れやすいものになったか?分からないけれど、ずっと観たかった映画をようやく観た。

 

 あらすじ

レティシアは黒人の女性。物語はレティシアの夫ローレンス(彼も黒人)の死刑執行前夜から始まる。ローレンスの死刑執行に携わる刑務官の1人として登場するのがハンク。彼は白人男性で人種差別主義者。父親と息子三代の刑務官。父親は人種差別が当たり前の時代を生きた人で刑務官は引退済み(?)。ハンクも父親の思想を受け人種差別主義者。一方ハンクの息子ソニーは近所の黒人の子供たちとも仲良し、心優しい青年で死刑執行に携わるのは今回が初めて。ローレンスの死刑当日、ソニーは耐え切れず嘔吐する。刑後ハンクはソニーを激しく罵倒。結果ソニーは追い詰められハンクの目の前で自殺、ハンクは刑務官を辞めることに。一方レティシアは夫を失い、家賃も払えず退去を迫られる。レストランで働きながら生活をするが、息子のタイレル過食症レティシアが目を離した隙にチョコレートを隠れて食べる。レティシアタイレルの肥満に激昂しながらも何とか2人で暮らしている。ところがある日レティシアの仕事帰りにタイレルと2人で帰っているとタイレルがひき逃げにあう。そこに偶然通りかかったのがレストランの常連であるハンク。一度は無視して通り過ぎるハンクだがレティシアの悲痛な叫びを聞き、レティシアタイレルを病院まで運ぶ。タイレルは助からず還らぬ人となり、このことを契機に2人はどんどん仲を深めていく、という筋。

 

感想

結局この映画のテーマは何だったのか。原題から推察するに死刑制度や黒人差別だと思うけれど、うーん…実際黒人差別的なシーンは何度も出てくるし、差別が当然だった父親の時代と平等が当然だった息子の時代に挟まれたハンクがどう生きるか、といった風に読めなくもない。しかし全般通して観ると恋愛に振れすぎな気も。差別主義者だった白人のハンクが黒人であるレティシアと恋人になるんだからテーマからずれていないと言われればそうだけれど。恐らく自分に洋画の下地がないので、細かな描写や読み取るべき心理変化を見落としている部分もあると思う。

邦題の『チョコレート』について。この邦題とキャッチコピーのせいで映画のテーマが何なのかが分かりにくくなっているとは思うが、やっぱり好きだ。映画にはチョコレートが数度登場するが、彼らは愛を埋めるためにチョコレートを食べているんだ、と。きっと甘やかされたいんだろうね。父親からの愛情に飢えたタイレルがチョコレートバーを食べるように、ハンクがレストランでプラスチックのスプーンを使ってチョコレートアイスを食べるように。

とりわけ秀逸なのが最後のシーン。ハンクとレティシアは深く結ばれ、ハンクはアイスクリームを買ってくるから何味がいいかとレティシアに尋ねる。レティシアはチョコレートと答える。ハンクはチョコレートアイスクリームを買いに車を出す。ハンクが不在の間に、息子のタイレルの遺品を眺めていたレティシアは、偶然にもハンクがローレンスの死刑執行人だと知ってしまう。ハンクが帰宅し、レティシアの様子がおかしいことに気づく。ハンクは外の階段でアイスを食べようと言い外に出る。従うレティシア。ハンクの手に握られているのはプラスチックのスプーン。ハンクの手からチョコレートアイスを食べさせてもらうレティシア。このシーンが本当に美しかった。ハルベリーの何とも言えない表情。恍惚としたような、それでいて艶やかな顔。ハンクの「俺たちきっとうまくいくよ」。レティシアは返事をしない。そして映画は終わる。

これをどう受け止めればいいのだろうか。肯定するでもなく、反駁するでもない。そしてこの表情。レティシアはどう思っているのだろう。夫を失い、息子を失い、失意の中に出会った愛する人。その人が夫の死刑執行人だったという現実。

『チョコレート』はハルベリーの濃密なベッドシーンがある。終盤のベッドシーンで

「君を大切にするよ」

「うれしいわ。私は大切にされたいの」

という会話がある。邦題通りチョコレートを愛の代用品として捉えるならば、愛に飢えていたレティシアが他人(=ハンク)の手から愛(=チョコレートアイス)を与えてもらった。息子にうまく愛を注げなかったハンクが愛(=チョコレートアイス)を他人(=レティシア)に与えられた。つまり、お互いに欠けていた部分を埋めることができた、ハッピーエンドだ、って言えるんだけどそんなに単純に考えていいのだろうか。レティシアの最後の表情は全てを静かに受け入れた笑みなのか、穏やかな幸せへ流されてしまおうという一種の諦めなのか。

やっと手に入れたしあわせが、ようやく心の隙間を埋めてくれると思ったものが、思いがけない事実から陽炎のように揺らいでしまったとき、私たちはどうしたらいいのだろう。かなしくて、やるせなくて、それでも幸せになりたいと願うのならば、どうするのが最善なのだろう。不都合な真実を見なかったことにしてゆるいしあわせに身を浸す人も、相手のことを許せないと突き放してしまう人も、誰のことも責められない。みんな苦しんでいる。かなしい。レティシアはどんな気持ちでチョコレートアイスを食べさせてもらっているんだろうか。埋めようのないさみしさを、生活の一部として生きてきたレティシアとハンクが、どうか、しあわせになれますように。

 

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