『シングルマン』を観た

 

 

人が死ぬ話が嫌いだ。死は永遠の隔絶であり、悲しくないはずがないのに、誰かの死で涙を誘おうとする小説や映画が嫌いだ。

 

シングルマン』は恋人を失った同性愛者の主人公の最後の一日を描く。愛する人はこの世のどこにももういないのに、愛する人の不在という事実以外は全く変わらない世界。君はもうどこにもいなくて、私はひとりで生きていかなきゃいけなくて、変わらない日常、違うのは君がもうどこにもいないということだけ。愛する人がいないこの世界をひとりでどう生きていけばいいのか。主人公は死を決意し、引き出しの鍵を開け、銃弾の装填されていないピストルをいつもの鞄に入れる。今日が最後の一日。最後の会話。

 

なんだかもう、全部が痛ましいのだ。死んだ恋人の夢を見て目が覚めることも、朝食のパンが凍っていて苛立ちキッチンに打ち付けるところも、最後だから、普段は言わないような褒め言葉を会う人会う人に並べていくところも。心の底から愛した人がいなくなった世界、その世界をのうのうと生きる自分。やるせないし、ゆるせないし、虚無と絶望だけが広がっていて。それをひどく美しい映像と音楽が際立てていく。耽美という言葉がとても似合う映画、映像の一つ一つが美しくて、ピントの当て方、ぼやかし方、切り取り方、明暗、彩度、そのどれもが物悲しさを引き立てる。かなしかった。とても、とても。

 

トムフォードといえば、香水や化粧品のイメージが強かったのだけれど、こういう映画を作る人なのは少し意外な気持ちがした。キラキラしたものを作る、もっと華やかな人だと思っていた。こんな人の心の一番やわらかいところに踏み込んで、ぐじゅぐじゅにしていくような映画を作る人だなんて思わなかった。

 

私は17歳で死ぬのが一番美しいと思っていて、17歳で死にたいと思っていて、だけど17歳で死ねなくて。18歳になったあの日から、私はこの先何となくずるずる生きて、死にたくないと思ったときに死ぬのだろうな、人生ってそういうものなんだらうなって感じていて、シングルマンはまさしくそういう映画だった。死のうと思って行動して死ねなくて、死ぬのを諦めた途端に死が迎えにくる。人生はきっと、そういうものだ。

 

映画の中で印象に残っている台詞がある。主人公の元恋人チャーリーが「Living past is my future.」というのに対して主人公は「Death is the future.」と言う。チャーリーも主人公も未来に救いはないと思っていることは共通しているのに、チャーリーは過去の楽しかった思い出に浸ることが慰みであるのに対して、主人公は死だけが救いと考えている。恋人と過ごした過去を思い出すことは苦しみでしかなく、慰みにすらならない。恋人がいなくなった世界をひとりで孤独に生きることに何の希望もない。主人公の苦悩がどれほど深いのか。

 

もう一つ印象に残っている台詞が、「恋人はバスと一緒。待っていれば次のが来る」というもの。恋人を失ったかなしみから抜け出せないでいる主人公にこの言葉が一体どれだけ響くのだろうか。実際に、かなしみの奥底にいる主人公を救い出すような存在が現れるのだけれど、でも、結局救いはないのだ。この映画に救いはない。あるのは底知れぬ美しさとかなしみだけ。私はこのかなしみを持ってどこへ迎えばいいのだろう。

 

もう本当に嫌だ。かなしい。ひどい。でも人生はこんなものなんだとも思う。人生はこんなものだ。ハッピーエンドは約束されていないし、救いなんてないことの方が多い。例えば異性愛者同士のカップルならば、片方が先に生を終えたとしても子供という存在がもう片方をこの世に繋ぎ止めるのだろう。だが『シングルマン』は同性愛者の物語で、彼らに子供はいなくて、愛する人が生きた証は自分の記憶の中にしかない。それがどれほど辛い状況だろうか。いやもうまじでかなしいので。映画の冒頭からずっと泣いて観た。かなしい。ひどくかなしい。人ひとりの喪失が現実の重さを持って迫ってくる。愛する人がいない世界を、あなたはひとりで生きていけるか?私にはきっと無理だ。愛する人の喪失という重さ、人ひとりのがいなくなってしまった空白、耐えられないし埋められない。やっぱり人が死ぬ映画は嫌だ、かなしい、かなしくない訳がない。

 

シングルマン』、うつくしくてかなしい物語です。よかったら是非。