『アルジャーノンに花束を』を読んだ

 

最近は中高生の頃に読んだ本を読み直すことが多い。新しい作者を開拓するエネルギーがなく、小説によって引き起こされる自分の感情の揺れ(しかもどういった揺れかというのは小説を読むまで分からない)に向き合うエネルギーがない。要するに疲れている。

馴れ親しんだものに触れるのは安心感がある。過去の自分の琴線に触れたという事実。それが私を安心させる。目の前のこの本は私の生活を乱さない。ある種の予定調和。

また、中高生の頃からの自身の変容をうかがい知れる。好きだと思っていた本に心動かされなくなっていたり、流していた部分にひどく心を乱されたり。私は変化しているんだな、と思う。それがいい方向になのか、そうではないのかは分からないが。

 

アルジャーノンに花束を』は高校生の時に読んだ本だ。恐らく、高校2年生の時だったと思うが、記憶は定かではない。おすすめの一冊をクラス全員が持ち寄り、1分間で回すというイベント(イベントという表現が正確なのかも分からないが)に持っていった記憶がある。クラスで一番賢くてクラスで一番いい大学に行った彼女が松本清張の『点と線』を持って来ていたことがやけに鮮明に記憶に残っている。

アルジャーノンに花束を』を私がどういう経緯で手に取ったのか覚えていない。この頃は中学生の時ほど乱読はしていなくて、押し寄せる膨大な量の課題と煽られる進路の問題の非現実感で疲れていた気がする。あまり覚えていない。私は海外の小説家の本を好まなかった。今も好んでは読まない。ひとえに私の無知が原因ではあるのだが、文化的背景を知らないために理解できないコンテクストや言い回しがあり、作者の含みを読み取れないことが多い。端的に言えば馴染まない感じがする。登場人物の思考や行動が私の育って来た環境とは馴染まない。日本の作家を読んでいる方がストレスがないのだ。

 

高校生の私は、チャーリィがアルジャーノンに「ここから逃げよう。一緒に」と言う場面が一等好きだった。「一緒に逃げる」という行為から連想されるロマンチックさは欠片もなく、ただかなしみが横たわっている。苛つき、焦り、そしてかなしみ。

高い知能を得て周囲と会話が成り立たなくなったチャーリィは、自己中心的だとか高慢だとか言われるまでになってしまう。そんなチャーリィがアルジャーノンに対して一貫して優しさを持っているのがかなしい。優しさと呼ぶのは適当ではないのかもしれないけれど、憐憫や同情と呼ぶ方が適当なのかもしれないけれど、それでもチャーリィは確かにアルジャーノンを想っているのだ。

 

面白かった本や好きだと思う本はたくさんあるけれど、『アルジャーノンに花束を』は特別に好きだった。今もその気持ちは変わっていない。私が死んだら棺桶にこの本を入れて一緒に燃やしてほしいと思っている。そのくらい好きだ。

高校生の頃はどうしてこの本をこんなに好きなのか言語化できなかったし、それは今も大して変わらない。ただ、今回読み直してみて、高校生の時は滑らせるように読んだ前半部分に心が動いた。チャーリィが手術を受けようと思ったのは、周りの人たちと対等になりたかったからだと思ってかなしかった。パン屋の人たちのことをチャーリィはともだちだと思っていて、キニアン先生に喜んでほしくて、大学生のように政治や宗教の話をしてみたくて、チャーリィは手術を受けた。パンの作り方や、周囲の人がどういうつもりで自分に接しているのかや、政治や宗教については全く分からないけれど、自分が人より劣っているという認識だけは痛いほどにあって、それで「ぼくはあたまがよくなりたいおも」ったことがかなしい。

チャーリィは純粋で、他人からの悪意なんてものが存在すると微塵も思っていなくて、みんなが自分に構ってくるのは「ぼくのことがすきだから」と思っている。チャーリィは何も悪くないのに、劣等感がチャーリィを動かし、手術を受け、現実に気づいてしまう。手術を受けさえしなければチャーリィが幸福だと思える世界に留まっていられたのに。高い知能を得たチャーリィが過去の自分に対して怒りのような苦い感情を持つのがかなしい。

 

私たちは優しいチャーリィのことも高い知能を得たチャーリィのことも大好きだよ、だから安心してねって言いたい。大丈夫だよって、チャーリィに安心してほしい。どうか、アルジャーノンとチャーリィが幸福でありますように。ダニエル・キイスが安らかに眠っていますように。