『肩ごしの恋人』を読んだ

 

唯川恵肩ごしの恋人』を読んだ。

 

この本を手にとったのは、タイトルが気になったとか、唯川恵が好きだとかではなく、ナツイチを買うともらえる猫のしおりが欲しかったからだ。集英社文庫がやっているナツイチ、名の売れた作者名が並び、読んだことあるタイトルもちらほら。惹かれる本が特になく、でもしおりは欲しいし、と手にとったのが今作だった。

恋愛物を読みたい気持ちではなかったが、ミステリやエッセイやホラーはもっと気分じゃなく、唯川恵、名前は知っているけど読んだことないし、直木賞受賞作らしいし、期待よりも面白いかもしれないと思って購入した。

私はどうして唯川恵を恋愛恋愛した作品を書く人だと思っていたのだろう。唯川恵には、江國香織と近い印象を抱いていて、女の悩みを描く女、と思っていた。全然違った。

肩ごしの恋人』は、二人の女の話だ。綺麗で、自分が綺麗なことを分かっていて、男から愛されるのが大好きで、自分は男から愛されるのが当然だと思っているし、愛されるために努力をしない女は馬鹿だし大嫌いだと思っている女、るり子。堅実で、真面目で、地に足がついていて、男もセックスも人並みに好きだが、男のことは信用していないし、自分のことはもっと信用していない女、萌。二人は5歳からの仲で今現在27歳。今年で28になる。萌は海外からの輸入会社に勤めており主任。るり子は派遣会社で秘書や受付をやりながら結婚と離婚を繰り返し、今回で三度目の結婚を迎える。

 

るり子と萌は性格も生き方も対照的で、二人の関係はわがままなるり子に萌が振り回されているように見える。るり子のあまりの暴君ぶりに苛つきを覚えるシーンも正直あった。るり子は当然ながら女友達がおらず、男とトラブったときに男で発散、ちょうどいい男が見つからないときは萌を使う、みたいな感じ。

どちらかと言えば私は萌寄りの性格をしていて、価値観も萌に近い。るり子みたいな女を武器にして男の庇護を受けることを至上としている女は苦手だ。女であるくせに女を放棄している、るり子から嫌われるタイプだろう。でも、るり子の生き方を否定できない。ある意味でそれは正しいとさえ思っていて、自分にはるり子のような男から寵愛を受けるタレントがないということを自覚している。るり子のような女に対する気持ちは侮蔑と羨望がないまぜになっていて、羨ましくて妬ましい一方で美しさなんて一過性のものだけを拠り所にしている女を馬鹿だと思う。人生が何年あるかなんて分からないが、人生が80年あるとして、女の一生は美しい盛りの時間よりも美しくなる以前の蕾の時期であったり、盛りが過ぎてしおれてしまった後の時間のほうが長いのに、なんて思ってしまう。同時に、今現在美しくない自分が何を言ったところで美しい彼女たちにとって私の言葉は何の重みも持たないことを知っている。

るり子はいい女だ。女であることを武器にしていて、男からの承認にしか価値を見出していないけれど、そうするのは結局、そういう自分が好きだからだ。好きな自分でい続けることに全てを注ぎ混んでいる、るり子はいい女だ。現実にいたら確実に嫌いだし、関わりたくないけれど、『肩ごしの恋人』に描かれたるり子を好ましく思う。もちろん彼女の身勝手さには腹が立つし、それに振り回される男たちや萌のことをとても気の毒に思う。ただ、るり子は自分の身勝手さを肯定していて、身勝手であることを美徳だとすら思っていて、そういう、自分の存在や行動を全肯定している彼女をまぶしく思う。

萌とるり子の関係は難しい。るり子が三度目の結婚をする相手信行は萌が付き合っていた男だ。萌と信行とデートしているところに偶然るり子が遭遇し、3人でご飯を食べ、るり子は信行の荷物にこっそり連絡先を忍ばせて次の日には二人で会う。そうして二人は結婚する。すごい。これだけでもすごいのに、るり子のさらにすごいところは、信行の浮気が発覚して浮気相手から「何度も断ったが信行からしつこく言い寄って来た 信行は20年も昔に流行ったような顔 40過ぎたおばさんに人気がある」といったことを言われ、萌に詰め寄るところだ。「萌が付き合ってたから信頼して信行と結婚したのに、なんて男を掴ませてくれたのよ!」めちゃくちゃすごい。幼馴染の友人の恋人を略奪しといてこの言い様。すごい。

萌がるり子と交友を続けているのは、るり子には何を言っても無駄という半ば諦めの気持ちもある。だけどやっぱり萌もるり子のことが羨ましいのかもしれない。報道記者になって世界中を飛び回りたいと思っていたのに、女という性別が足枷になり叶わなかった。今勤めている会社は、少しでも世界と関わりを持ち続けたいという気持ちで就職し、真面目に仕事をこなして主任にまで登りつめた。昔は海外の希少な雑貨や家具を扱っていたのに最近はなぜかアダルトグッズの取り扱いが増えている。萌はアダルトグッズ部門のチーフを任されそうになる。話を受ければ昇任で、同期ではそのポストに着くのが一番早い存在となる。しかし萌は断り会社を辞める。るり子とは違うつもりで生きてきて、そのために積み上げてきたものを一瞬で失ってしまう。

 

肩ごしの恋人』、性格が対照的な女たちの恋愛譚みたいな雰囲気出してるけど、女と女の友情の物語ですよ。もちろん男は何人か出てきて、既婚者だったり15歳だったりゲイだったりするわけで、るり子と萌が彼らとセックスしたりしなかったりするわけだけど、そこは壮大なおまけです。これは友情の物語だ。

るり子が萌と交友を続けているのは、萌以外にるり子を疎ましがらない女がいないからだと思って途中まで読んでたんだけど、そんなことなかくて、それがめちゃくちゃ良かった。物語も終わりに向かおうとしているとき、るり子と萌の小学生のときの話が出てくる。小学生はうさぎを飼っていて、飼育係は人気の係だった。ある日うさぎ小屋に犬を放すという悪質ないたずらが起こる。翌日グロテスクな死骸となったうさぎを生徒たちが遠巻きにする中、萌は新聞でうさぎの亡骸を包んでいく。それを見た男の子が萌に言う。「おまえ、よくそんな気持ち悪いことできるな。ゾンビだろ」彼は飼育係に最も強く自薦していた生徒だった。萌は彼を平手打ちして一言。「ふん、臆病者が」「女が女に惚れるというのはこいう時だ」という結びの文章が美しい。るり子は、萌しかいないから仕方なくとか萌が都合がいいからではなく、萌が好きだから萌といるのだ。最高だ。

肩ごしの恋人』の結末は、構造としては単純だ。特定の相手がいなかった萌が妊娠しシングルマザーの道を選ぶ、男たちに愛され有り余る幸せを手にしていたるり子がゲイに恋する。持たなかった者が新たなものを手にし、持っていたはずの者が持たない者になる。持つって何を?世間一般で言うところの「幸せ」である。でも、肝心なのは、世間一般の「幸せ」は必ずしもあなたの「幸せ」ではないということだ。『肩ごしの恋人』の結末には、悲壮感などかけらも漂わない。萌は幸福で、るり子も幸福で、二人はそれはそれはしあわせな未来図を描いている。

 

あとがきで江國香織唯川恵の筆致を「梨の筆」と呼んで賞賛していた。上手い言い回しだと思う。唯川恵の他の作品を読んだことがないので唯川恵全体をそう呼ぶことはできないが、少なくとも今作『肩ごしの恋人』は「梨の筆」だった。生々しいこともたくさん書いてあるのに、それが言葉以上の意味や重さを持つことはない。みずみずしくて、軽くて、「女」を語るときに付き纏いがちな陰鬱は微塵も感じられない。仕事のキャリアと女としての幸せという、多くの女が揺れ惑う問題を真っ向から描いておいて、だ。これはすごいことだ。

肩ごしの恋人』で私が好ましく思ったことの一つに、悪い人間が出てこないということだ。萌とるり子はもちろん、信行も、崇も、山本ユリも、柿崎も、文ちゃんも、リョウも、いい奴だとは言い切れなくとも、こんな人間がのうのうと生きてるなんて…と思うような人間が出てこなかった。みんな幸せになってほしいよ。

 

肩ごしの恋人』は萌とるり子の友情が中心の、幸福な物語である。萌も、るり子もかっこいい。女の幸せという難しいテーマを扱いつつも、読後には軽やかで明るい気持ちを抱かせる唯川恵の筆致は見事だった。女と女の友情が好きな女達には特におすすめです。ぜひ。

 

 

肩ごしの恋人 (集英社文庫)

肩ごしの恋人 (集英社文庫)