『蛇行する川のほとり』を読んだ

 

恩田陸『蛇行する川のほとり』を読んだ。

 

私にも確かに少女だった頃が存在するはずなのに、少女だった私が何を考えていたのかほとんど思い出せない。ただ、少女にはタイムリミットがあることをひしひしと感じていて、出来ることならば少女でいるうちに死にたいと願っていたことはよく覚えている。人生に絶望していたとかそんな大それたことではなく、17歳の、少女が少女であるうちに、少女のままで生涯を終えるのが最もうつくしいと思っていたから。しかし、自死はうつくしくないとも同時に思っていて、それゆえ私はそういった手段を取らなかった。私がいなくなった後に大して仲良くもない人々から私の死を彼女たちの人生の装飾品のように扱われるのが我慢ならなかった。偶発的な事故によって少女のまま時を止める、更新されなくなる、永遠の少女となるのが望ましかった。望んでいた事故は訪れなかったので、私は少女でなくなりながらも毎日生活をしている。17歳の最後の夜、明日18歳となるというあの夜に椎名林檎の『17』を聴いていたことを今も覚えている。

 

『蛇行する川のほとり』は少女たちの物語である。それぞれ違った様式で、しかし皆抜群に美しい少女たち。季節は夏で、舞台は曰く付きの一軒家、美しい少女たちと、とある過去の未解決事件。恩田陸の作品はミステリよりもジュブナイル小説の方が個人的には好きなのだが、この作品は2つの要素がちょうど良く混在している。過去の事件の解明に向かって物語は動いていくのだが、あくまでも焦点が当てられているのは少女たちだ。

 

少女を描く作品が好きだ。留まらないもの、戻らないもの、だからこそうつくしく見えるもの。透明で、壊れそうで、しかしそこには芯がある。少女特有のもの。それらを描く作品が好きだ。あまりにも上手く少女を描かれると、作家というのはすごいものだと驚嘆するばかりだ。

 

太宰治の『女生徒』が好きで、初めて読んだのは高校生の時だったが、いたく感動したのを思い出した。自分にしか理解されないと思っていた感情が、そこにはありありと描写されていた。繊細というべきか、センチメンタルというべきか、あの頃の私たちはとにかく揺らぎやすい年頃で、多少の感受性と本を読む習性を持ち合わせていたならば、私たちはみな『女生徒』を好きにならずにはいられなかった。だから当時、どこかで『女生徒』を、「自己愛の強い少女の物語」と紹介している文章を見てひどく落胆した。私たちが抱いていたあれは決して自己愛なんかじゃないが、側から見れば自己愛に見えるのだと。それはそういうふうに受け取られる可能性があるのだと。そういうふうにしか受け取れない人たちが存在しているのだと。

 

少女は難しい。傷つきやすいくせに、理解してほしがりで、でも誰にも理解されたくない、理解できるはずがないとも思っていて、引っ込み思案で、その割に驚くほど突飛な行動をとることがある。少女が好きだ。

『蛇行する川のほとり』は、作品が面白かったのはもちろんだが、文庫本あとがきがとりわけ好きだった。恩田陸は、彼女が感じていた「少女たち」を作品に封じ込めることに見事に成功している。やわらかな感受性と成熟した分別を持った人なのだと思った。恩田陸が描く少年少女はうつくしい。

 

少女、あるいは思春期の少年少女に対して特別な思い入れがある人におすすめしたい作品だ。風景描写の鮮明さと曖昧さが上手く使い分けられている。恩田陸は情景にフェードをかけるのが上手い。

 

ただやっぱり、人が死ぬ話はかなしい。

 

 

蛇行する川のほとり (集英社文庫)

蛇行する川のほとり (集英社文庫)