『チョコレート』を観た

 

ハルベリー主演の『チョコレート』を観た。原題は『Monster's Ball』(怪物たちの舞踏会)。英国では死刑執行前夜に看守たちが宴会を行い、それをMonster's Ballと呼ぶらしい。

邦題の『チョコレート』は日本の配給会社が付けたもの。キャッチコピーの「たかが愛の、代用品。」もそう。

何だか満たされない気持ちがするとき、お腹をいっぱいにすることで満たされない心を埋めようとすることってない?私はそういうことがよくあって、だから「チョコレート」が「たかが愛の、代用品。」なのに惹かれたんだと思う。「たかが、愛の代用品」じゃなくて、「たかが愛の、代用品」。たかがは愛に掛かっている。そして代用品がチョコレートである、と。最も身近なお菓子であるところのチョコレート。このコピーを見たとき、スピッツの『運命の人』にある「愛はコンビニでも買えるけれど もう少し探そうよ」という歌詞を思い出した。21世紀になって、愛は手軽になったか?手に入れやすいものになったか?分からないけれど、ずっと観たかった映画をようやく観た。

 

 あらすじ

レティシアは黒人の女性。物語はレティシアの夫ローレンス(彼も黒人)の死刑執行前夜から始まる。ローレンスの死刑執行に携わる刑務官の1人として登場するのがハンク。彼は白人男性で人種差別主義者。父親と息子三代の刑務官。父親は人種差別が当たり前の時代を生きた人で刑務官は引退済み(?)。ハンクも父親の思想を受け人種差別主義者。一方ハンクの息子ソニーは近所の黒人の子供たちとも仲良し、心優しい青年で死刑執行に携わるのは今回が初めて。ローレンスの死刑当日、ソニーは耐え切れず嘔吐する。刑後ハンクはソニーを激しく罵倒。結果ソニーは追い詰められハンクの目の前で自殺、ハンクは刑務官を辞めることに。一方レティシアは夫を失い、家賃も払えず退去を迫られる。レストランで働きながら生活をするが、息子のタイレル過食症レティシアが目を離した隙にチョコレートを隠れて食べる。レティシアタイレルの肥満に激昂しながらも何とか2人で暮らしている。ところがある日レティシアの仕事帰りにタイレルと2人で帰っているとタイレルがひき逃げにあう。そこに偶然通りかかったのがレストランの常連であるハンク。一度は無視して通り過ぎるハンクだがレティシアの悲痛な叫びを聞き、レティシアタイレルを病院まで運ぶ。タイレルは助からず還らぬ人となり、このことを契機に2人はどんどん仲を深めていく、という筋。

 

感想

結局この映画のテーマは何だったのか。原題から推察するに死刑制度や黒人差別だと思うけれど、うーん…実際黒人差別的なシーンは何度も出てくるし、差別が当然だった父親の時代と平等が当然だった息子の時代に挟まれたハンクがどう生きるか、といった風に読めなくもない。しかし全般通して観ると恋愛に振れすぎな気も。差別主義者だった白人のハンクが黒人であるレティシアと恋人になるんだからテーマからずれていないと言われればそうだけれど。恐らく自分に洋画の下地がないので、細かな描写や読み取るべき心理変化を見落としている部分もあると思う。

邦題の『チョコレート』について。この邦題とキャッチコピーのせいで映画のテーマが何なのかが分かりにくくなっているとは思うが、やっぱり好きだ。映画にはチョコレートが数度登場するが、彼らは愛を埋めるためにチョコレートを食べているんだ、と。きっと甘やかされたいんだろうね。父親からの愛情に飢えたタイレルがチョコレートバーを食べるように、ハンクがレストランでプラスチックのスプーンを使ってチョコレートアイスを食べるように。

とりわけ秀逸なのが最後のシーン。ハンクとレティシアは深く結ばれ、ハンクはアイスクリームを買ってくるから何味がいいかとレティシアに尋ねる。レティシアはチョコレートと答える。ハンクはチョコレートアイスクリームを買いに車を出す。ハンクが不在の間に、息子のタイレルの遺品を眺めていたレティシアは、偶然にもハンクがローレンスの死刑執行人だと知ってしまう。ハンクが帰宅し、レティシアの様子がおかしいことに気づく。ハンクは外の階段でアイスを食べようと言い外に出る。従うレティシア。ハンクの手に握られているのはプラスチックのスプーン。ハンクの手からチョコレートアイスを食べさせてもらうレティシア。このシーンが本当に美しかった。ハルベリーの何とも言えない表情。恍惚としたような、それでいて艶やかな顔。ハンクの「俺たちきっとうまくいくよ」。レティシアは返事をしない。そして映画は終わる。

これをどう受け止めればいいのだろうか。肯定するでもなく、反駁するでもない。そしてこの表情。レティシアはどう思っているのだろう。夫を失い、息子を失い、失意の中に出会った愛する人。その人が夫の死刑執行人だったという現実。

『チョコレート』はハルベリーの濃密なベッドシーンがある。終盤のベッドシーンで

「君を大切にするよ」

「うれしいわ。私は大切にされたいの」

という会話がある。邦題通りチョコレートを愛の代用品として捉えるならば、愛に飢えていたレティシアが他人(=ハンク)の手から愛(=チョコレートアイス)を与えてもらった。息子にうまく愛を注げなかったハンクが愛(=チョコレートアイス)を他人(=レティシア)に与えられた。つまり、お互いに欠けていた部分を埋めることができた、ハッピーエンドだ、って言えるんだけどそんなに単純に考えていいのだろうか。レティシアの最後の表情は全てを静かに受け入れた笑みなのか、穏やかな幸せへ流されてしまおうという一種の諦めなのか。

やっと手に入れたしあわせが、ようやく心の隙間を埋めてくれると思ったものが、思いがけない事実から陽炎のように揺らいでしまったとき、私たちはどうしたらいいのだろう。かなしくて、やるせなくて、それでも幸せになりたいと願うのならば、どうするのが最善なのだろう。不都合な真実を見なかったことにしてゆるいしあわせに身を浸す人も、相手のことを許せないと突き放してしまう人も、誰のことも責められない。みんな苦しんでいる。かなしい。レティシアはどんな気持ちでチョコレートアイスを食べさせてもらっているんだろうか。埋めようのないさみしさを、生活の一部として生きてきたレティシアとハンクが、どうか、しあわせになれますように。

 

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