『シェイプ・オブ・ウォーター』を観た

 

観たいけどまだ観てない!って人もそろそろいないと思うので。

 

シェイプ・オブ・ウォーター』を観ました。

 

この映画は、言葉を話せない女性イライザと同じく人間の言葉を話せない半魚人の恋物語です。半魚人の「彼」にイライザが人間の言語を教えていき、恋に落ちていく。

音として言葉を発せないため手話でコミュニケーションをするイライザ、黒人のゼルダ、同性愛者のジェイルズと、登場人物のほとんどが今で言うところのマイノリティーなのがこの映画の一つの特徴です。

その辺の考察については他の詳しい人たちがいくらでもやってるので探して読んでください。

 

この映画の一つのテーマは、相手に自分の意思を「伝える」ということだと思っています。

私たちは通常、音声を伴う言語コミュニケーションによって他者との意思疎通を図ります。言葉のキャッチボールを行うことで相手と意思疎通を行えている気持ちになっている。

映画を通じて最も印象的だったシーンが、殺処分されることの決まった「彼」を救出に行く手助けをしてほしいとイライザがジェイルズを説得するシーンでした。ジェイルズは反対し、イライザを振りほどいて家を出ようとするのですが、イライザはジェイルズを何度も引き止め、手話と、表情と、体全身を使ってジェイルズに訴えます。

「伝える」という地平で、私たちに何が出来るのか。他の人に、自分の考えていることをありのまま分かってもらうことは無理だと思います。同じように、誰かが伝えようとしていることを、私は私の経験や感覚に沿ってしか理解することができません。他人との完全な意思疎通はできないんです。

中学の国語の先生が、『同じ「赤」という言葉を使っていても、あなたが「赤」という言葉で伝えようとしている赤と私が「赤」という言葉から連想する赤は同じ色じゃない』とおっしゃっていたのを覚えています。

だからやっぱり、他の人に自分の考えを完璧に分かってほしいというのは、難しいんだと思います。

 

じゃあ、それでも伝えたいことがあったらどうすればいいのか?言葉では伝えきれない、正しく伝わらない、でも伝えたい、伝えなきゃいけない、そんな思いがあるとき、私たちはどうすればいいのでしょう。

映画を観終わってすぐに連想した曲がありました。ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『夜のコール』という曲です。『夜のコール』には

「全ての想いを言葉にするのは無理でしょう

 それでも僕らは言葉から逃げられないでしょう」

という歌詞があります。つまりそういうことなんだと思います。言葉では伝えられない、でも、それでも伝えたいと思うのならば、言葉を尽くすしかない。

 

シェイプ・オブ・ウォーター』は、言葉を話せないイライザが、「伝える」ことを諦めない姿にひどく心を打たれた映画でした。

音声を発せないために言語コミュニケーションにおいて不利な状況にあるイライザが、一生懸命に伝えようとする。じゃあ、私は?伝える前から諦めていないか?どうせ伝わらないからと、伝えることそのものを放棄していないか?

 

インターネットを見ていると、「ハ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜こいつとは絶対に分かりあえね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」と思うことも少なくないですよね。自衛のためにそういった人たちと距離を置くのも必要なことだと思います。だけど、それでも、譲れないことがあるのなら、もう少し伝えることを頑張ってみようかなと思いました。

 

 

余談ですが、『シェイプ・オブ・ウォーター』は色彩が大変にうつくしいです。画面が全体的に緑がかっていて、最初は寒色系のドレスや靴を身につけていたイライザですが、恋心の成長とともに服飾品が赤に変わっていくんですよね。緑の中の鮮やかな赤。赤いカチューシャも、ドレスも、靴も、とてもよく似合っているよイライザ…。

 

これまた余談なんですけど、映画を観た後、何個か感想ブログを読んだんですね。そこで、とあるブログに、イライザの首の傷跡がエラに変わる最後のシーンを説明する仮説として『「彼」の能力は「元に戻す」能力で、イライザは元々人魚だった』説が紹介されてて、めっちゃ素敵〜〜〜〜〜〜〜〜!!!って思いました。

その説だったら冒頭の水中に沈んだ先がイライザの部屋だったカットとか、イライザがたくさんの靴を持っていて毎日磨いてから履いていることとか、そういうのもしっくりくるし、トキメキフォーエバーナイトって感じです。

 

シェイプ・オブ・ウォーター』、ストリックランドさん視点のシーンとか映画では伝え切れなかった細かい部分がもりもりにつまった小説があるので読みたいです。

ストリックランドさんや一人残されたジェイルズ(自分のこと「遺失物」って言ってたもんね…)のことを思うと少し悲しいけれど、観てよかったです。

 

 

『シングルマン』を観た

 

 

人が死ぬ話が嫌いだ。死は永遠の隔絶であり、悲しくないはずがないのに、誰かの死で涙を誘おうとする小説や映画が嫌いだ。

 

シングルマン』は恋人を失った同性愛者の主人公の最後の一日を描く。愛する人はこの世のどこにももういないのに、愛する人の不在という事実以外は全く変わらない世界。君はもうどこにもいなくて、私はひとりで生きていかなきゃいけなくて、変わらない日常、違うのは君がもうどこにもいないということだけ。愛する人がいないこの世界をひとりでどう生きていけばいいのか。主人公は死を決意し、引き出しの鍵を開け、銃弾の装填されていないピストルをいつもの鞄に入れる。今日が最後の一日。最後の会話。

 

なんだかもう、全部が痛ましいのだ。死んだ恋人の夢を見て目が覚めることも、朝食のパンが凍っていて苛立ちキッチンに打ち付けるところも、最後だから、普段は言わないような褒め言葉を会う人会う人に並べていくところも。心の底から愛した人がいなくなった世界、その世界をのうのうと生きる自分。やるせないし、ゆるせないし、虚無と絶望だけが広がっていて。それをひどく美しい映像と音楽が際立てていく。耽美という言葉がとても似合う映画、映像の一つ一つが美しくて、ピントの当て方、ぼやかし方、切り取り方、明暗、彩度、そのどれもが物悲しさを引き立てる。かなしかった。とても、とても。

 

トムフォードといえば、香水や化粧品のイメージが強かったのだけれど、こういう映画を作る人なのは少し意外な気持ちがした。キラキラしたものを作る、もっと華やかな人だと思っていた。こんな人の心の一番やわらかいところに踏み込んで、ぐじゅぐじゅにしていくような映画を作る人だなんて思わなかった。

 

私は17歳で死ぬのが一番美しいと思っていて、17歳で死にたいと思っていて、だけど17歳で死ねなくて。18歳になったあの日から、私はこの先何となくずるずる生きて、死にたくないと思ったときに死ぬのだろうな、人生ってそういうものなんだらうなって感じていて、シングルマンはまさしくそういう映画だった。死のうと思って行動して死ねなくて、死ぬのを諦めた途端に死が迎えにくる。人生はきっと、そういうものだ。

 

映画の中で印象に残っている台詞がある。主人公の元恋人チャーリーが「Living past is my future.」というのに対して主人公は「Death is the future.」と言う。チャーリーも主人公も未来に救いはないと思っていることは共通しているのに、チャーリーは過去の楽しかった思い出に浸ることが慰みであるのに対して、主人公は死だけが救いと考えている。恋人と過ごした過去を思い出すことは苦しみでしかなく、慰みにすらならない。恋人がいなくなった世界をひとりで孤独に生きることに何の希望もない。主人公の苦悩がどれほど深いのか。

 

もう一つ印象に残っている台詞が、「恋人はバスと一緒。待っていれば次のが来る」というもの。恋人を失ったかなしみから抜け出せないでいる主人公にこの言葉が一体どれだけ響くのだろうか。実際に、かなしみの奥底にいる主人公を救い出すような存在が現れるのだけれど、でも、結局救いはないのだ。この映画に救いはない。あるのは底知れぬ美しさとかなしみだけ。私はこのかなしみを持ってどこへ迎えばいいのだろう。

 

もう本当に嫌だ。かなしい。ひどい。でも人生はこんなものなんだとも思う。人生はこんなものだ。ハッピーエンドは約束されていないし、救いなんてないことの方が多い。例えば異性愛者同士のカップルならば、片方が先に生を終えたとしても子供という存在がもう片方をこの世に繋ぎ止めるのだろう。だが『シングルマン』は同性愛者の物語で、彼らに子供はいなくて、愛する人が生きた証は自分の記憶の中にしかない。それがどれほど辛い状況だろうか。いやもうまじでかなしいので。映画の冒頭からずっと泣いて観た。かなしい。ひどくかなしい。人ひとりの喪失が現実の重さを持って迫ってくる。愛する人がいない世界を、あなたはひとりで生きていけるか?私にはきっと無理だ。愛する人の喪失という重さ、人ひとりのがいなくなってしまった空白、耐えられないし埋められない。やっぱり人が死ぬ映画は嫌だ、かなしい、かなしくない訳がない。

 

シングルマン』、うつくしくてかなしい物語です。よかったら是非。

 

 

 

 

『チョコレート』を観た

 

ハルベリー主演の『チョコレート』を観た。原題は『Monster's Ball』(怪物たちの舞踏会)。英国では死刑執行前夜に看守たちが宴会を行い、それをMonster's Ballと呼ぶらしい。

邦題の『チョコレート』は日本の配給会社が付けたもの。キャッチコピーの「たかが愛の、代用品。」もそう。

何だか満たされない気持ちがするとき、お腹をいっぱいにすることで満たされない心を埋めようとすることってない?私はそういうことがよくあって、だから「チョコレート」が「たかが愛の、代用品。」なのに惹かれたんだと思う。「たかが、愛の代用品」じゃなくて、「たかが愛の、代用品」。たかがは愛に掛かっている。そして代用品がチョコレートである、と。最も身近なお菓子であるところのチョコレート。このコピーを見たとき、スピッツの『運命の人』にある「愛はコンビニでも買えるけれど もう少し探そうよ」という歌詞を思い出した。21世紀になって、愛は手軽になったか?手に入れやすいものになったか?分からないけれど、ずっと観たかった映画をようやく観た。

 

 あらすじ

レティシアは黒人の女性。物語はレティシアの夫ローレンス(彼も黒人)の死刑執行前夜から始まる。ローレンスの死刑執行に携わる刑務官の1人として登場するのがハンク。彼は白人男性で人種差別主義者。父親と息子三代の刑務官。父親は人種差別が当たり前の時代を生きた人で刑務官は引退済み(?)。ハンクも父親の思想を受け人種差別主義者。一方ハンクの息子ソニーは近所の黒人の子供たちとも仲良し、心優しい青年で死刑執行に携わるのは今回が初めて。ローレンスの死刑当日、ソニーは耐え切れず嘔吐する。刑後ハンクはソニーを激しく罵倒。結果ソニーは追い詰められハンクの目の前で自殺、ハンクは刑務官を辞めることに。一方レティシアは夫を失い、家賃も払えず退去を迫られる。レストランで働きながら生活をするが、息子のタイレル過食症レティシアが目を離した隙にチョコレートを隠れて食べる。レティシアタイレルの肥満に激昂しながらも何とか2人で暮らしている。ところがある日レティシアの仕事帰りにタイレルと2人で帰っているとタイレルがひき逃げにあう。そこに偶然通りかかったのがレストランの常連であるハンク。一度は無視して通り過ぎるハンクだがレティシアの悲痛な叫びを聞き、レティシアタイレルを病院まで運ぶ。タイレルは助からず還らぬ人となり、このことを契機に2人はどんどん仲を深めていく、という筋。

 

感想

結局この映画のテーマは何だったのか。原題から推察するに死刑制度や黒人差別だと思うけれど、うーん…実際黒人差別的なシーンは何度も出てくるし、差別が当然だった父親の時代と平等が当然だった息子の時代に挟まれたハンクがどう生きるか、といった風に読めなくもない。しかし全般通して観ると恋愛に振れすぎな気も。差別主義者だった白人のハンクが黒人であるレティシアと恋人になるんだからテーマからずれていないと言われればそうだけれど。恐らく自分に洋画の下地がないので、細かな描写や読み取るべき心理変化を見落としている部分もあると思う。

邦題の『チョコレート』について。この邦題とキャッチコピーのせいで映画のテーマが何なのかが分かりにくくなっているとは思うが、やっぱり好きだ。映画にはチョコレートが数度登場するが、彼らは愛を埋めるためにチョコレートを食べているんだ、と。きっと甘やかされたいんだろうね。父親からの愛情に飢えたタイレルがチョコレートバーを食べるように、ハンクがレストランでプラスチックのスプーンを使ってチョコレートアイスを食べるように。

とりわけ秀逸なのが最後のシーン。ハンクとレティシアは深く結ばれ、ハンクはアイスクリームを買ってくるから何味がいいかとレティシアに尋ねる。レティシアはチョコレートと答える。ハンクはチョコレートアイスクリームを買いに車を出す。ハンクが不在の間に、息子のタイレルの遺品を眺めていたレティシアは、偶然にもハンクがローレンスの死刑執行人だと知ってしまう。ハンクが帰宅し、レティシアの様子がおかしいことに気づく。ハンクは外の階段でアイスを食べようと言い外に出る。従うレティシア。ハンクの手に握られているのはプラスチックのスプーン。ハンクの手からチョコレートアイスを食べさせてもらうレティシア。このシーンが本当に美しかった。ハルベリーの何とも言えない表情。恍惚としたような、それでいて艶やかな顔。ハンクの「俺たちきっとうまくいくよ」。レティシアは返事をしない。そして映画は終わる。

これをどう受け止めればいいのだろうか。肯定するでもなく、反駁するでもない。そしてこの表情。レティシアはどう思っているのだろう。夫を失い、息子を失い、失意の中に出会った愛する人。その人が夫の死刑執行人だったという現実。

『チョコレート』はハルベリーの濃密なベッドシーンがある。終盤のベッドシーンで

「君を大切にするよ」

「うれしいわ。私は大切にされたいの」

という会話がある。邦題通りチョコレートを愛の代用品として捉えるならば、愛に飢えていたレティシアが他人(=ハンク)の手から愛(=チョコレートアイス)を与えてもらった。息子にうまく愛を注げなかったハンクが愛(=チョコレートアイス)を他人(=レティシア)に与えられた。つまり、お互いに欠けていた部分を埋めることができた、ハッピーエンドだ、って言えるんだけどそんなに単純に考えていいのだろうか。レティシアの最後の表情は全てを静かに受け入れた笑みなのか、穏やかな幸せへ流されてしまおうという一種の諦めなのか。

やっと手に入れたしあわせが、ようやく心の隙間を埋めてくれると思ったものが、思いがけない事実から陽炎のように揺らいでしまったとき、私たちはどうしたらいいのだろう。かなしくて、やるせなくて、それでも幸せになりたいと願うのならば、どうするのが最善なのだろう。不都合な真実を見なかったことにしてゆるいしあわせに身を浸す人も、相手のことを許せないと突き放してしまう人も、誰のことも責められない。みんな苦しんでいる。かなしい。レティシアはどんな気持ちでチョコレートアイスを食べさせてもらっているんだろうか。埋めようのないさみしさを、生活の一部として生きてきたレティシアとハンクが、どうか、しあわせになれますように。

 

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